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「喫茶去」
禅に由来する言葉で、よく茶室の掛け軸に書かれてたりします。
「きっさこ」って読みます。ま、なにはともかく、お茶でも飲みなさいって事ですね。
「行ってこ、見てこ」などの「こ」と同じ感じの「去」で、中国・唐の時代末期の趙州(じょうしゅう)和尚の名言。この人778年 〜 897年、80歳まで諸方を行脚し、それから120歳まで趙州の観音院で大法を挙揚したといわれております。とにかく元気で長生きだったわけです。日本では平安時代の真っ盛り。最澄と空海は804年に入唐してますから、どこかで会っているかもですね。
で、この「喫茶去」の逸話。
趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。
趙州「あなたはかつてここに来たことがおありかな?」
僧 「はい、以前にも参りました」
趙州「喫茶去」
またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「あなたはかつてここに来たことがおありかな?」
僧 「いいえ、ここに来たことはありません」
趙州「喫茶去」
これを聞いていた寺の事務や経済面を主宰する僧は「かつて来た者にも、初めての者に『喫茶去』と言われるが、どういうわけですか?」とたずねたんですね。
趙州はこれに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主が思わず「はい」と答えたその時、趙州はまた「喫茶去」と。
以上が「喫茶去」のすべて。
数多くの禅問答の中で、いかにも茶人に喜ばれそうなお茶をめぐる話です。
それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と接したのは、趙州和尚の分けへだての無い無心の境地からの「喫茶去」なのです。
分別、取捨、過去・現在、あちら・こちら、勝ち・負けなどと分ける意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれ。そこには、凡人聖人、貴賎、男女、自他などの区別は無いのですね。
私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば丁重にもてなし、嫌いな人や貧乏人にはいい加減な対応をしてしまいがち。
誰に対しても分けへだてなく、真心から接する、いわゆる「おもてなし」のこころの原点が喫茶去だと思うんです。
お茶と禅の関わりは、大変長〜く深〜く、こういう話は沢山あります。
また、そのうちに、ボチボチと。
喫茶去
喫茶去

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